江戸時代になると「日本最古の洋バラ」という記録が残っています。
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宮城県松島町にある円通院(えんつういん)というお寺にあります。伊達政宗の家臣で慶長遣欧使節団を率いてヨーロッパに渡航した支倉常長さんが持ち帰ったと言われています。 洋バラには見えないという意見もありますが、真相は謎に包まれています。 でもこの時代になってやっと日本のバラの歴史に「中国」以外の「西欧」という言葉が出てくるようになったのではないでしょうか。 |
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(上の写真は円通院にあるバラの説明を撮影したもの)
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とは言え、やはり書物や絵画では圧倒的に日本と中国のバラが多く記されています。 ハマナス、長春(コウシンバラ)、白長春(白花のコウシンバラ)、ナニワイバラ、イザヨイバラ、サンショウバラなどです。 しかし江戸時代にはまだ名前が一定していなく、書かれている花の特徴から現代の名前を推測したり、研究者も”これは何だろう?”と悩む記述もあるそうです。 絵画も、どう見てもバラのことを知らない人が別の人の絵を写したのではないかと思われる、辻褄の合わない絵もあるそうです。 |
江戸時代は、園芸は盛んでした。ツバキやボタンやツツジなどの他に、変化アサガオなど変わりものを見つけて楽しむ風潮もありました。 でもバラは、書物や絵画にこれだけ出てくるのですから決して一般に知られていなかったわけはないとは思いますが、江戸の園芸植物ランキングではだいぶ下のほうだったかもしれません。 |
| でも、フランス皇帝ナポレオン1世の皇后ジョセフィーヌがバラの育種に夢中になってバラをどんどん増やしたのは1700年代です。ヨーロッパだって1600年代にはバラは薬用目的の栽培が多かったのですから、日本は遅れてる?なんてそんなにがっかりすることはないと思います。野バラを園芸に用いなかった、それだけのことです、きっと。。。 |
日本は江戸時代には鎖国をしていましたが、東インド会社などを経由して長崎などから外国人が入国しています。 その中に”プラントハンター”と呼ばれる人々がいました。日本や中国の、ヨーロッパにとっては珍しい植物を持ち帰った人々です。長崎出島のオランダ商館医でドイツ人医師のケンペル、植物学者でスウェーデン生まれの医師ツンベリー、そしてシーボルトも、たくさんの植物をヨーロッパにもたらしました。 その植物中にはもちろんバラも含まれています。中国からは中国原産のバラを、日本からは日本原産のハマナスなどのバラを持ち帰りました。そしてこの後ヨーロッパのバラと掛け合わせて、世界中で新しい品種のバラがどんどん作出されて行くことになります。 |