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アンネのバラ
「アンネの日記」をご存知ですか?
第二次世界大戦中ナチス・ドイツの大虐殺(ホロコースト)により亡くなったユダヤ人少女アンネ・フランクの日記を、父オットー・フランク氏が出版し世界的ベストセラーになったものです。

では、アンネ・フランクの名前が付いたバラがあることはご存知でしょうか。そして、そのバラが日本と深いかかわりがあることを。

ここでは、『「アンネ・フランクのバラ」アンネの意思を受け継いだ人びと』という本を元に、アンネのバラにまつわるエピソードを紹介します。


Souvenir d'Anne Frank
1960年 Delforge

アンネのバラが最初に日本にやってきたのは1972年です。
その前年、1971年に日本とイスラエルの文化交流のために合唱団がイスラエルを訪問しました。(「アンネ・フランクのバラ」の本の編著者は聖イエス会の方々ですので、合唱団というのは聖歌隊に近いのかもしれません。)
合唱団の方々は、イスラエルのレストランで偶然アンネ・フランクの父オットー・フランク氏に出会います。「アンネの日記」のことはもちろん合唱団の方々も知っていましたので、その時から合唱団の方々とオットー氏との交流が始まりました。そして1年後にはオットー氏の好意によりアンネのバラ10株が日本に送られました。
アンネのバラは正式な名前を「Souvenir d'Anne Frank」といい「アンネ・フランクの形見」と訳されています。
輸送事情の悪さから苗木の到着までに1ヶ月もかかってしまい、10株のうち9株が枯れ、1株だけが合唱団の一員で聖イエス会の創設者でもある大槻さんの庭に根付きました。この1株がアンネのバラと日本を結びつける最初の1本となりました。

アンネのバラはその後、大槻さんと「アンネの日記」を読んだ学生たちの交流からその存在が広く知られるようになりました。「私達もアンネのバラを育ててみたい!」という学生たちの希望を受け、オットー氏は更に10株のバラ苗を日本に送りました。この苗を園芸家や学生たちが接木をして増やしていった結果、現在では日本中でアンネのバラが栽培されるようになりました。平和学習、国際理解学習としてアンネ・フランクを取り上げた学生たちの多くが学校でアンネのバラを栽培しています。検索サイトで「アンネのバラ」をキーワードに検索してみると、各学校が「アンネの日記」を研究し”アンネ・フランクの形見”と名付けられたバラを大切にしている様子を知ることができます。

1980年4月、兵庫県西宮市にアンネのバラの教会が完成しました。教会の方の説明によると、この教会はアンネやオットー氏との友情を記念し、アンネのバラ園を造り、アンネに関する本や資料を集めて保存し、若い人々にアンネの理想を持たせる、という趣旨で設立されたそうです。
教会の写真を見ると、アンネの像の周りをぐるっとアンネのバラが取り囲んでいます。アンネのバラは色の変化するバラですから、まるで赤や黄の色とりどりのバラに囲まれているように華やかです。
アンネ・フランク資料館館長高橋数樹氏のアンネのバラの紹介文を抜粋してみましょう。
「普通、バラの花は蕾が少し開いた状態が一番美しいものです。しかし、アンネのバラは、開花後も変色し、日々色が変わるので、見る者を最後まで楽しませてくれます。そして散り方は実に潔いのです。」
「アンネのバラの花は、美しく変化する性質を持っています。蕾の時は赤色、開花するとオレンジ色に黄色がかったいわゆる黄金色で、さらに時間の経過とともに日差しを浴びて、花弁の先から次第にサーモンピンクに変色し、さらに濃く変色して赤色に近くなります。色の変化は寒暖の差が激しいほど鮮やかで冴えます。」
なんて不思議な、魅力的なバラなのでしょう!

ところで、そもそもアンネのバラはいつ、どのようにして作られたのでしょうか。
アンネのバラの元になるバラは、ベルギーの園芸家ヒッポリテ・デルフォルヘ氏(1905〜1970)の手によって1955年に作出されました。ヒッポリテ氏と息子のビルフリート氏は、1959年にオットー・フランク氏と出会い、アンネのために彼らが持っていた最も美しい種類のバラの一つを捧げることにしました。
「アンネの日記」は世界中の方々に読まれているのですね。
そのバラは1960年「Souvenir d'Anne Frank アンネ・フランクの形見」という名前で発表されました。
そしてそれをオットー氏が日本の合唱団に送ってくださったというわけです。
新種のバラは育種家(園芸家)の手でいろいろなバラを交配させて生み出されます。アンネのバラの親になったのはレーヴ・ド・カプリ(Reve de Capri)というバラとシャントクレア(Shanteclerc)というバラです。
レーヴ・ド・カプリの親はプレジデント・ハーバート・フーヴァー。アメリカ合衆国の第31代大統領の名前を頂いています。フーヴァー大統領が就任したのは1929年。アンネ・フランクの生まれた年です。
シャントクレアの親はピース。1945年ベルリン陥落(アンネたちユダヤ人を迫害したナチス・ドイツの敗北を意味します)を記念して名付けられたバラです。
偶然とはいえ、アンネのバラの祖父母にあたる二種のバラは、アンネに少なからず関連を持つ、と高橋氏(前述)はおっしゃっています。

どこかの学校で、教会で、資料館で、バラ園で、アンネのバラを見かけたら、なぜアンネ・フランクの形見という名前が付けられたのか、なぜそのバラが日本に咲いているのか、バラの後ろに広がる背景を思い起こしていただければ幸いです。

様々な表情を見せるアンネのバラ

参考文献
○『「アンネ・フランクのバラ」アンネの意思を受け継いだ人びと』 出版文化社

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